【前回までのあらまし】
雑誌『月刊ボディビルディング』の記事をきっかけにスポーツ医学とカイロプラクティックの道を志した私は、大学生活の後半を渡米資金を稼ぐための「執念のアルバイト」に捧げた。検索窓すらないネットなき時代、アメリカの大学に関する情報は皆無に等しかったが、自らの「地力」だけを頼りにロサンゼルスの語学学校へ手紙を書き、エージェントに頼らず自力で学生ビザ(F-1)を取得。ついに渡米への切符を手にした。
【今回の記事要旨】
時は1991年、日本は空前のバブル景気。周囲が「超・売り手市場」での就職活動に浮かれる中、私の視線はただアメリカだけを向いていた。渡米まで1年を切った頃、これまで伏せていた計画をついに告白。アメリカ留学には親の反対がつきものだが、案の定、母親からは引き止めの言葉が返ってきた。しかし、私の決意が揺らぐことは微塵もなかった。2年間で600万円の資金を貯め上げ、片道切符を手に迎えた1992年3月。いよいよ海を渡るその目前で、想定外の事態が勃発する——。
周囲から浮いた「変わり者」の圧倒的マイノリティ

大学卒業を1年後に控えた1991年。日本はまだバブル景気に浮かれていました。いわゆる「超・売り手市場」であり、企業は新卒の青田買いに躍起になっていた時代です。就職活動で苦労する学生など皆無で、研究室のコネクションだけであっさりと就職が決まっていくのが当たり前の情勢でした。
そんな中、就職の道を選ばず、単身アメリカへ渡ろうとする学生など、私の周りには一人もいません。今思えば、周囲からは相当な「変わり者」として見られていたことでしょう。
しかし当然ながら、私は当時から他人の目など微塵も気にしていませんでした。「わが道を行く」というスタイルは、もしかしたら生まれながらに備わっていた性質だったのかもしれません。一度決めたら、他人の意見を参考にすることはあっても、それに唯々諾々と従うことはあり得ないのです。
卒業の2年前に固く決意した渡米計画は、周囲の浮かれた空気とは無縁のところで、淡々と、そして着々と進んでいました。
アメリカ留学に対する親の反対と、予定通りの結末
実は、両親には直前までこの計画を明かしていませんでした。反対される可能性が高いのは目に見えていましたし、万が一反対されたとしても、それに屈して渡米を諦めるという選択肢は私の中に完全に存在しなかったからです。誰に何を言われようと、私の計画は変わらない。
とはいえ、これまでお世話になった両親です。筋を通す意味でも、話をしておく必要性は感じていました。大学4年になり、渡米まで1年を切った頃、ついに計画を打ち明けました。
すると案の定、母親からはこう返ってきました。
「いったん就職して2、3年経って、それでもアメリカに行きたかったらそうしなさい」
親も私の性格をよく分かっています。そんな言葉で私が渡米を諦めるわけがないことは、心のどこかで悟っていたはずです。私はその言葉に何も反論することなく、静かに電話を切りました。
それ以降、両親と私のアメリカ留学について話し合うことは、ただの一度もありませんでした。
親の言葉を聞いても、自分の決意が一瞬たりとも揺るがなかった。その事実を自分自身で確認できたことで、私のアメリカへの思いはむしろ、さらに強固なものになっていたのです。
貯金600万と片道切符。そして迎えた1992年3月

そこからは、さらにアルバイトと研究、そして日々のボディビルのトレーニングに明け暮れる怒涛の日々です。
執念で貯め上げた資金は、2年間でなんと600万円に達していました。すでにロサンゼルス行きの片道切符は手元にあります。語学学校の入学時期も決まり、さらにエアメールでのやり取りを通じて、現地での住む場所も手配してもらいました。
もう、あとは身一つで海を渡るだけです。
そしてあっという間に、運命の1992年3月がやってきました。
しかし、いよいよ出発というこのタイミングで、私の前に想定外の問題が勃発します。
(次回へ続く)

この記事を書いた人:榊原 直樹
徒手療法大学 学長 / 米国公認ドクター・オブ・カイロプラクティック (DC) / 医学博士 (PhD)
1998年に米国カリフォルニア州でDCライセンスを取得し、ロサンゼルスで10年間臨床に従事。帰国後、岐阜大学医学部にてスポーツ医学の医学博士号を取得。現在は名古屋駅前での臨床の傍ら、徒手療法大学(名古屋・神戸・札幌)の学長として後進の育成に尽力している。
2000年よりヴィパッサナー瞑想を実践し、毎日の瞑想を日課とする。心身両面からのアプローチを探求し続けている。