【学長コラム】私の原点(18) コンフォートゾーンからの脱却とアメリカのカイロプラクティック大学入学への道

【前回のあらまし】

渡米後、ロサンゼルスでの弁当配達や語学学校通いという充実した日々にすっかり馴染み、人生の「凪」とも言えるコンフォートゾーンにいた私。ある日、配達途中で偶然見つけた日系人カイロプラクター、ドクター・ヤマダのクリニックへ飛び込む。最初は冷たくあしらわれたものの、「カイロプラクターになるために日本から来た」という熱意を真っ直ぐに伝えた瞬間、彼の態度は一変。アメリカでの現状を教わり、さらには大学入学に必須となる「現役D.C.からの推薦状」まで書いてもらうという、最高のワンプレイを引き寄せたのだった。

ドクター・ヤマダの「一押し」は、心地よい日常にどっぷりと浸かっていた私の重い腰を、ついに持ち上げさせてくれた。今回は、私が実際にアメリカのカイロプラクティック大学へ入学するまでの道のりと、立ちはだかった壁についてお話ししよう。

刺激的だった「コンフォートゾーン」からの脱却

1990年代のロサンゼルスで、車を運転する笑顔の若い日本人男性。助手席には弁当配達バッグと英語の教科書があり、サンバイザーには多国籍な友人の写真。背景にハリウッドサイン。

当時の私は、毎日車でロサンゼルス中を走り回って弁当を配達し、空いた時間で英語の勉強、そして無料の語学学校で多国籍な友人たちとコミュニケーションを取るという、日本では考えられないほど刺激的で充実した日々を送っていた。今思えば、その居心地の良さに甘んじ、完全に「コンフォートゾーン」に入り込んでいたのだろう。

そんな状況から私を引っ張り出してくれたのが、他でもないドクター・ヤマダだった。彼は「すぐにでもカイロプラクティック大学から願書を取り寄せ、現時点で入学に必要な条件を確認しなさい」と的確なアドバイスをくれたのだ。

カイロプラクティック大学入学の最重要要件とは?

私はすぐに行動に移し、クリーブランド・カイロプラクティック・カレッジのアドミッションオフィス(入学事務局)へと向かった。キャンパスはロサンゼルスのダウンタウンとハリウッドのちょうど中間に位置しており、弁当配達からノースリッジの自宅へと帰るルートの途中にあった。
オフィスを訪ねると、とても愛想の良い黒人女性のスタッフが、満面の笑みで願書を手渡してくれた。

自宅に戻り、すぐさまカイロプラクティック大学入学のための要件を確認する。
細々とした条件はいくつかあったが、最重要項目は「TOEFLのスコア」と「大学レベルの理科系科目の取得単位」の二つだった。幸いにも、語学学習の甲斐あってTOEFLのスコアはすでにクリアしていた。

残る壁は、日本の大学で取得した単位の証明だ。出身大学から公式な履修単位証明書を取り寄せる必要があったのだ。

友人の協力とアメリカ基準の「単位再評価」

カイロプラクティック大学 入学,1993年LAで筆者が大学時代の友人・佐藤(現・東北大学教授)へエアメールを書いている。デスクには東北大学の住所が書かれた封筒、二人の旧写真、東北大学の資料が置かれている。

私はすぐに、大学時代の友人である佐藤にエアメールを書いた。彼は私と同じ学部で博士課程に進学していたため、大学に在籍していることは分かっていた。(ちなみに彼は現在、東北大学の教授となっている)。
彼に事情を説明し、「早急に履修単位の公式書類を取得して郵送してほしい」と頼み込んだ。

ありがたいことに、すぐに彼から返信があった(とはいえ、エアメールの往復なので、手紙を出してから優に2週間は経過していたが)。封筒の中には、私が大学時代に履修した全ての単位が英語で記載された公式書類が入っていた。持つべきものは友である。

次にやるべきは、この日本の単位を「アメリカの大学の基準」に再評価(エバリュエーション)することだった。アドミッションオフィスの彼女から、海外の大学の単位をアメリカ基準に変換してくれる専門の機関があることを教わっていたのだ。

早速その機関へ書類を送付すると、1週間後には再評価された書類が戻ってきた。結果を確認して胸を撫で下ろした。日本で取得した単位が「100%」認められていたのだ。
これで、カイロプラクティック大学へ入学するための最重要書類がすべて揃ったことになる。

あっけなく開かれた扉

残すは面接のみ。
私はすぐに必要書類を一式抱えてアドミッションオフィスへ向かった。すると数日後、「面接をするから大学に来るように」との連絡が入った。
当日、事務局長らしき人物と10分程度の面接(というより、ただの会話に近かった)を交わした後、なんとすぐその場で合格の知らせを受けたのだ。

あまりにもあっけない幕切れだった。

日本の大学を卒業する2年前に渡米を決意し、資金を貯めるためにひたすらアルバイトに明け暮れた日々。そして実際に海を渡ってから、すでに1年弱の月日が流れていた。
念願の入学許可を手にしたのは、1993年5月のことだった。

(続く)

榊原直樹

この記事を書いた人:榊原 直樹

徒手療法大学 学長 / 米国公認ドクター・オブ・カイロプラクティック (DC) / 医学博士 (PhD)

1998年に米国カリフォルニア州でDCライセンスを取得し、ロサンゼルスで10年間臨床に従事。帰国後、岐阜大学医学部にてスポーツ医学の医学博士号を取得。現在は名古屋駅前での臨床の傍ら、徒手療法大学(名古屋・神戸・札幌)の学長として後進の育成に尽力している。
2000年よりヴィパッサナー瞑想を実践し、毎日の瞑想を日課とする。心身両面からのアプローチを探求し続けている。

名古屋・神戸・札幌のカイロプラクティックスクール|徒手療法大学ではカイロプラクティックを学びたいという将来のカイロプラクターを募集中です。

1990年代初頭のアメリカの**カイロプラクティック大学 入学**事務局で、デニムシャツを着た若い東アジア人男性(筆者)が、笑顔のアフリカ系アメリカ人女性スタッフに願書を提出している。旧式のコンピュータや他の人々が背景に見える、1993年当時の雰囲気。
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