【学長コラム】私の原点(11)〜アメリカ留学サバイバル。ロサンゼルスの無料語学学校とたくましきクラスメイト達〜

【前回のあらすじ】

大学時代の後輩の予期せぬ訪問に驚かされつつも、彼に手伝ってもらい家賃の安い下宿先へと引っ越した。そしてこのタイミングで、私はなけなしの軍資金を守るために一つの大きな決断を下す。授業料の高い語学学校を辞め、学生ビザを放棄して「違法滞在者」になるという選択だ。次なる英語学習の場として、隣町レシーダにあるという「無料の語学学校」の噂を耳にしたが、果たしてビザのない身で無事に通うことはできるのだろうか?

▶︎ 前回の記事:【学長コラム】私の原点(10)〜まさかの訪問者!ドアの前に立っていた後輩と、渡米6週目の大きな決断〜

当時の私の主な移動手段は自転車だった。暇を見つけてはかなり遠出もしており、ノースリッジからベニスビーチまで、約30キロの道のりを頻繁に自転車で走り回っていた。

噂に聞いた無料の語学学校があるレシーダ(Reseda)は、ノースリッジの南隣に位置する街だ。早速自転車を走らせると、15分程度で到着した。事務所へ行き、無料の学校について尋ねてみると、ちょうど学期が終わったところで、次の学期の登録を開始しているとのこと。まさに絶妙のタイミングだった。

1990年代初頭の、太陽光が差し込むレシーダ語学学校の事務室。若い日本人男性(主人公)が、親切そうな中年の白人事務員から、はっきりと「TUITION-FREE (無料)」と書かれた登録用紙を差し出されている。主人公は驚きと期待が入り混じったワクワクした表情で登録用紙を見つめている。背景には世界地図や手書きの「WELCOME TO ESL」「START NEXT WEEK!」のポスターが貼られ、ネームプレートには「OFFICE CLERK」と書かれている。

登録に必要なものを聞くと「何もいらない」と言う。登録用紙に名前と住所を書くだけでよいとのことだった。念のため「本当に授業料はかからないのか?」と確認してみたが、事務員はあっさりと「無料だ」と答える。なんだかキツネにつままれたような気分だった。こんなにもトントン拍子に事が進むとは、完全に想定外である。

授業開始は1週間後。何が起こるか分からないが、この学校に通うのが待ち遠しくてワクワクしてきたのを今でも鮮明に覚えている。

ロサンゼルスで見つけた無料の語学学校と、たくましき「違法滞在者」たち

そして待ちに待った授業初日。事前に受けていたテストによって英語のレベル分けがされており、指定された教室に入ってみると、そこにいたのはみな個性的な面々ばかりだった。南米系がメインで、ベトナム人も少し混ざっている。もちろん、日本人は私一人だけだった。

適当な席に着いてキョロキョロしていると、すぐにメキシコ系の男から話しかけられた。この時点で日常会話程度なら問題なくこなせたので、彼とのやり取りに支障はなかった。私自身、この学校について聞きたいことが山ほどあったため、彼にいくつか質問を投げかけてみた。

1990年代初頭のロサンゼルス、レシーダにある無料語学学校の教室。中央で、チェック柄のシャツを着た若い日本人男性(主人公)が、隣の口ひげのメキシコ人男性から親しげに肩に手を置かれ、話しかけられている。日本人男性は少し驚きつつも、笑顔で応じている。周囲には南米系やベトナム人の多国籍な生徒が座り、黒板には「WELCOME TO FREE ESL CLASS!」と大きな手書き文字で書かれている。太陽光が差し込む、温かく活気に満ちたドキュメンタリー調の瞬間。

すると、驚くべき実態が見えてきた。この語学学校に来ているのは、本国から亡命してきた人や、違法滞在者ばかりだと言うのだ。特に南米系の人々は、観光ビザで入国してそのまま居座る「オーバーステイ」のケースが多いらしい。つまり、合法的に滞在できるビザを持っていないということだ。

「なんだ、自分と同じじゃないか」

その話を聞いた瞬間、この学校に通う人たちに対して、妙な仲間意識というか、強い親近感が湧いたのを覚えている。しかも南米特有のノリの良さもあってか、みな非常にフレンドリーで、瞬く間に私の友人は増えていった。

以前通っていた語学学校は、授業料が高い分、生徒たちの身なりもきちんとしており、どこか堅苦しさを感じていた。しかし、この学校に集まる連中はみなたくましかった。違法滞在という立場でありながらもロサンゼルスで仕事を見つけ、夜は語学学校に通い、必死に、そして力強く生きていたのだ。彼らと一緒にいるだけで、その底知れぬ生命力とエネルギーをもらっているような気がした。

400人中、日本人は私一人

学校は月曜日から金曜日までの週5日間。毎日そこへ通うのが楽しみで仕方なかった。授業内容自体は日本の中学校レベルだったが、私が求めていたのは文法の勉強ではなく、彼らとのリアルなコミュニケーションだった。

学校全体で20クラスほどあり、1クラス約20名だったので、生徒数は全部で400名ほどだったと思う。途中にある休憩時間には校庭に出てみたが、案の定、400名の中で日本人は私一人だった。無理もない。普通の日本人留学生はもっと環境の整った「ちゃんとした」語学学校に通うので、こんなディープな場所にはやって来ないのだ。

日本人が珍しかったからか、休み時間になるたびにたくさんの人から声をかけられた。そのおかげで、学校へ行くたびに新しい友人が増えていった。

1990年代初頭、ロサンゼルスの無料語学学校の屋外校庭。若い日本人男性が、身振り手振りの激しい南米系の友人たちの賑やかなグループに囲まれている。彼らは一度に急速に話しかけており、彼の周りには彼らの会話(「¡Hey amigo!」「I told you, they are so fast!」「No paper test!」「Listen to this shower!」など)の密集したテキストのシャワーが渦巻いている。彼は圧倒されながらも、熱心に聞いている。ベンチには以前の登録用紙とノートがある。

そして、この時期を境にして、私の英語力——とりわけリスニングとスピーキングの能力は飛躍的に伸びることになる。前述の通り授業のレベルは大したことはなかったが、南米の友人たちは、ペーパーテストは苦手でも「会話」に関してはネイティブレベルでペラペラと話せる人が多かったからだ。彼らとの容赦ない英会話のシャワーが、最高の実践トレーニングになったのだ。

エキサイティングな日々と、忍び寄る現実

1990年代初頭のロサンゼルスの安アパートで、若い日本人男性が深く真剣な表情で、手持ちの「軍資金(WAR FUND)」と書かれた封筒と、手書きの「仕事探しリスト」を見つめている。窓の外には夕暮れのLAのスカイラインが見える。

こんな感じで、毎日が楽しくて仕方なかった。

先のことなど、まったく考えていなかった。あの頃は毎日新しい出来事が起こり、新しい人との出会いがあり、本当にエキサイティングな日々を過ごしていた。当時のあのワクワク感は、数十年経った今でも鮮明な感覚として残っている。

しかし、現実は確実に忍び寄っていた。日本から持ってきた「軍資金」が日に日に減っていくという事実である。楽しい生活の中で、これだけが唯一の、そして最大の気がかりだった。

手持ちの資金が底を突けば、このアメリカでのサバイバル生活も終わりを迎える。そこで私は、一大決心をした。

そう、「仕事探し」を始めたのだった。

(続く)

榊原直樹

この記事を書いた人:榊原 直樹

徒手療法大学 学長 / 米国公認ドクター・オブ・カイロプラクティック (DC) / 医学博士 (PhD)

1998年に米国カリフォルニア州でDCライセンスを取得し、ロサンゼルスで10年間臨床に従事。帰国後、岐阜大学医学部にてスポーツ医学の医学博士号を取得。現在は名古屋駅前での臨床の傍ら、徒手療法大学(名古屋・神戸・札幌)の学長として後進の育成に尽力している。
2000年よりヴィパッサナー瞑想を実践し、毎日の瞑想を日課とする。心身両面からのアプローチを探求し続けている。

名古屋・神戸・札幌のカイロプラクティックスクール|徒手療法大学ではカイロプラクティックを学びたいという将来のカイロプラクターを募集中です。

1990年代初頭のロサンゼルス、レシーダにある無料語学学校の教室。アジア人男性(主人公)を中心に、和気あいあいと交流する多国籍な生徒たち。黒板には「WELCOME TO FREE ESL CLASS! RESEDA, L.A. NO FEE ENGLISH.」と書かれている。
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