【前回までのあらまし】
1991年、バブル絶頂期の就職戦線に目もくれず、周囲から「変わり者」扱いされながらもアメリカ留学という我が道を突き進んだ大学時代。親からの引き止めを想定し、自力で2年間・600万円の渡米資金を執念のアルバイトで捻出した。ネットなき時代に自らロサンゼルスの語学学校とやり取りして学生ビザを取得し、片道切符を手に、ついに1992年の出発を迎えようとしていた。
【今回の記事要旨】
親の反対を見越し、資金面でも完全に自立することを選んだ大学生活。魚市場やトラック配送の過酷なアルバイトとボディビルのトレーニングに明け暮れる中、実は足元で大きなアメリカ留学のトラブルの火種が進行していた。それは、必修科目「生命科学」の単位取りこぼし。迫り来る渡米の日を前に、厳しい教授から下された「不合格」の宣告と、前代未聞の「5月卒業」。そして、甘い見通しで予定より早くロサンゼルスへ飛び立ったことが、現地での波乱の幕開けとなる。
親の反対を見越した「完全自立」への布石
大学卒業の2年前にアメリカへの渡米を固く決意し、すぐさま留学資金を貯めるべく過酷なアルバイト生活に身を投じたのには、明確な理由がありました。
それは、「両親に渡米を反対されることを、あらかじめ前提としていたから」です。
もし、留学資金を親に依存していれば、反対された瞬間に「渡米」という選択肢そのものが消滅してしまいます。しかし、資金を自分自身で用意できれば、親に反対されようとも自分の意思を貫き通すことができます。自分でコントロールできる要素は、徹底的に自分でコントロールする。これこそが、私が当時から実践していた「地力」の鍛錬でした。

睡眠時間は授業中。そして訪れた「生命科学」の悪夢
連日、早朝から夜までのアルバイト(魚市場とトラック配送)、卒業論文のための研究、さらにボディビル部での日々のハードな筋トレ。文字通り寝る間も惜しんで2年間を走り抜けたわけですが、実のところ、学生としての本分を完璧にこなせていたわけではありませんでした。
本来なら、ほとんどの4年生は専門科目の履修を終えている時期です。しかし私は、3年生の時に取りこぼした単位があり、再履修の身でした。つまり、卒論だけでなく講義にも出席しなければならなかったのです。
言い訳になってしまいますが、講義に出席する時点で、すでに魚市場とトラック配送という「二仕事」を終えた後。いくら体力自慢の20代とはいえ、疲労困憊の極みです。アパートに帰ってシャワーを浴びて泥のように眠りたい衝動を必死に抑え、そのまま大学へ直行していました。その結果どうなるか。授業が始まるとほぼ同じタイミングで、机で熟睡してしまうのです。
中でも「生命科学」の授業は、私にとって地獄でした。再履修の講義にもかかわらず、教授の話はチンプンカンプン。しかも、その教授は非常にシビアな方で、試験の点数が1点でも足りなければ容赦なく再履修の烙印を押すことで有名でした。
案の定、私は4年生で再び生命科学の講義を受けるハメになっていたのです。他の科目はギリギリ何とかなったものの、この生命科学だけはどうしても合格点に届きません。そしてついに、渡米を目前に控えた1月末の期末試験で「不合格」を叩き出しました。
教授室での最終テストと「5月卒業」の真実

不合格の直後、私はすぐに教授室へ呼び出されました。
私が4年生で、この単位を落とせば卒業できないことを知った教授は少し驚いた顔をした後、きっぱりとこう言い放ちました。
「特別にもう一度だけテストをやります。それで合格点を取れなければ、卒業はできません」
さすがの私も内心少し焦りましたが、過去に一度「退学騒ぎ」を起こしていたこともあり、変な度胸だけは座っていました。「最悪卒業できなくても、自分は学歴に関係のない世界で生きていくから関係ない」と、かなり粋がっていたのです。
結局、同級生たちが卒業を控える3月末、私は教授室で一人、生命科学の再試験に挑んでいました。
結果が出たのは4月に入ってから。当然、同級生たちが笑顔で集う3月末の卒業式には出席していません。
結果は……「合格」でした。
こうして私は、晴れて大学卒業の資格を得たのです。ただし、3月卒業ではなく、異例の「5月卒業」という形で(笑)。
粋がって「中退でも構わない」などとうそぶいていましたが、今振り返ると、大卒と中退では気分的にも社会的にも雲泥の差があります。当時は気づきませんでしたが、後になってその事実をしみじみと噛み締めることになります。
いざロサンゼルスへ。アメリカ留学最初のトラブルへのカウントダウン
無事に大卒の肩書きを手に入れ、いよいよ運命の日がやってきました。
渡米日は1992年5月24日(日)。成田発ロサンゼルス行きのアメリカン航空です。
手配してあったドミトリー(学生寮)の入居日は6月1日からでした。しかし、若気の至りとは恐ろしいものです。当時の私は、「1週間くらい早く着いても、直接交渉すればなんとかなるだろう」と、深く考えずに1週間前倒しでアメリカに飛ぶ決断をしていました。
この「根拠のない軽い気持ち」が、未知の国・アメリカに降り立った直後の私を、アメリカ留学最大級のトラブルへと巻き込んでいくことになるのです。
(次回へ続く)

この記事を書いた人:榊原 直樹
徒手療法大学 学長 / 米国公認ドクター・オブ・カイロプラクティック (DC) / 医学博士 (PhD)
1998年に米国カリフォルニア州でDCライセンスを取得し、ロサンゼルスで10年間臨床に従事。帰国後、岐阜大学医学部にてスポーツ医学の医学博士号を取得。現在は名古屋駅前での臨床の傍ら、徒手療法大学(名古屋・神戸・札幌)の学長として後進の育成に尽力している。
2000年よりヴィパッサナー瞑想を実践し、毎日の瞑想を日課とする。心身両面からのアプローチを探求し続けている。